心理カウンセリングやヒプノセラピー(催眠療法)もやっている精神科医です。内科経験もあり。メンタルヘルス、人生のこと 、思索、エッセイ、旅、音楽、ギター、ひとり言 etc.  息抜きに読んで頂ければ幸いです。3.11以降は、原発関連の情報中心です。
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     毎日太陽が昇ること、夏が暑いこと、子どもが成長すること、飛行機が空を飛ぶこと、お金で物が買えること etc.
     どんなに文明が発達しても、しなくても、宗教があっても、無くても、私たちの生活は「信じる」ことで成り立っています。

     とりあえず人と人が信じ合っていなければ、世の中が成り立たないのは太古も現代も変わりません。

     日々の生活に必要な大小さまざまな事柄を、何を根拠に「信じ」ているかと言うと、それは決して「科学」知識などではないでしょう。何故ジャンボ機が空を飛べるのか、科学的に理解して乗るわけではありませんし。

     お金の価値が変わらないと思うのも、経済学者がそう言うから信じているのではありません。経済学者さえ正確には予測できない通貨価値の安定と変動を支えているのは、所詮人々の「信用」です。それが崩れれば「信用恐慌→金融恐慌」は容易に起こり得ます。
     
     「信じる」ことの究極の根拠は、何ら物質的な世界には存在していないのだと思います。
     私の主観であり、あなたの主観であり、私とあなたの主観であり、私・たちの共同主観であり…。つまるところ、形なき心の世界に発しているのだと思います。



     子どもたちは生まれつき、親を神様のように「無条件に信じ」ています。でなければ生きていけないからです。虐待を受けた子どもがその記憶を喪失したり、「自分が悪かったからだ」と歪んだ「物語」に作り変えるのは、小さな命の精一杯の自己防衛でもあります。
     大人を信じられなくなった子どもほど、無力で悲惨な存在はありません。


     この目には見えない「無条件に信じる」力は、「愛」以前に発動する心のはたらきであり、「愛」と同じくらいに強力です。


     私・たちの多くは心のどこかで密かに信じてきたのだと思います。『いくらなんでもそんな大事故が起こるとことはない』と。チェルノブイリの事故があっても、やがてその現実を忘れて日々の生活を送ってきたのではないのでしょうか。少なくとも私はそうでした。 

     いま私たちが直面しているのは、「信じる」あるいは「信頼する」心のありようそのものの崩壊であるのかも知れませ。自身や子どもたちの命を守るためには、とても「信じる」ことのできない危険な言説や、行動や、人間たちや、隠された現実が多すぎます。
     今回の大惨事で、それらが一挙に露呈してしまいました。周りを見渡せば、嘘、騙し、欺き、偽り、ごまかしに囲まれてしまっています。

     「信じ難い」ことに、命のこと、人類の未来など意にも介しない人々が、この国や世界の原子力政策を押し進め、今回の事故を半ば「必然的」に引き起こしたのだという、「悲劇」さえ通り越してしまった度し難い現実。

     それらを「無心に」、「無条件に信じ」てきた、「わたし」自身に対する幻滅。



     それらを全て無かったことにしてしまおうという、心理的防衛が働いても不思議ではありません。

     「放射能恐怖症」などという奇妙なレッテルを張りたがる人々は、本当はとても心弱い人たちなのかもしれません。疑い出したらとても正気でいられなくなる現実を、認めたくないのかも知れません。
     彼や彼女らは、「信じる」という根源的に強固な心理的安定装置を破壊されることから、自らを守ろうと必死なのかも知れません。

     「さまざまな情報を自分で考え、判断し、行動する」

     それは一言で言うほどに容易な事ではありません。ましてや命や、長い未来に関わる選択については。



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    【2011/07/12 23:40】 | 心理
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     カウンセラーやセラピストを振り回したあげく、セラピーそのものを破壊してしまうクライエント。その心理は、普段から無意識のうちに行っている「自己破壊」行為の延長線上にあるとも言えます。

     強風に煽られて、枝葉が揺さぶられている木であれば、風が止むのを待ったり、添え木をする程度で、難を免れることができます。場合によったら、枝葉を切り落としてしまえば倒れることもなく、やがて新しい枝が育つのを待てばいいだけです。

     では、根っこが不安定なために揺れ動き、いまにも倒れそうな木があったとします。そんな木は、風がなくても自らの重みで根こそぎ倒れる可能性があります。それを支えようとして、枝の揺れを止めようとすると、却って根元が不安定になります。
     平均台の上でバランスを保つ要領を考えればわかりますが、私たちは倒れないために両手をしきりにバタつかせます。その両手の動きを押さえ込まれると、ますますアンバランスになって平均台から落ちてしまいます。

     「セラピーそのものを破壊してしまうクライエント」とは、そういう根っこの不安定な木のような人です。下手に手を出すと、我が身もろともひき倒されてしまいます。

     なぜそうなったのか・・・。恐らくは、幼少期からの長年にわたる強い自己否定感が、その原因であるのだと思います。

     「自己否定感」を否認するために、非常に強固なプライドや誇大的な自己像を持っていることもあります。「私は、あなたの如き無名のセラピストに、判断され得るような存在ではない」と、内心では思いこみながら、セラピストが全身全霊で自分自身のためにエネルギーを注いでくれることを、執拗に要求します。あたかも幼子が母親に訴えるかのように・・・。

     セラピストにとってまず必要なのは、そういう「大変な人」なのかどうかを判断する能力と、自分の力量で一体何ができ、何ができないのかを見極める能力なのだと思います。



    【2010/07/18 21:30】 | 心理
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     倒れそうな人の横に立って、いつでも支えられる体勢をとることで、安心感を与えるのが「援助」だとすれば、実際に倒れてきた時に相手の体をしっかり支えるのは「救助」です。倒れてしまうのではないかと心配して、先に支えてしまうのはある意味「おせっかい」と言わざるを得ません。

     カウンセラーに求められるのは、ほどよい「援助」なのだと思います。「ほどよい」を過ぎた「おせっかい」は、その人自身の気づきや自己洞察のチャンスを奪ってしまいます。
     そして「救助」は、もはやカウンセラーの仕事ではなく、早急にその道の専門家に委ねなければいけません。

     つまり「何もしない」のが、カウンセラーの一番の仕事です。「何もして」もらえなくても、その人が話を聞いてくれるだけで気持ちが軽くなって、悩みが解きほぐされていく。それをじっと辛抱強く「見守る」能力こそが、カウンセラーには必要なのです。

     親子や夫婦や恋人の間でカウンセリングが不可能なのは、まさに「何もしない」ことができない関係だからです。心理的に、あるいは現実生活上、近すぎる関係では「受容」よりも「共感」や「反感」の方が表に現れてしまうので、お互いがお互いの心を揺さぶり、巻き込み合ってしまうために、最も大切なカウンセラーの「立場」が成立し得なくなるのです。




    【2010/07/17 21:30】 | 心理
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     「わかってもらえるだけでいい」と思えるクライエントさんにはそれで十分なのでしょう。が、「もっとわかって欲しい」、「どこまでもわかって欲しい」と渇望している人の場合、余程慎重に構えないと、大変なことになり兼ねません。セラピスト自身が「共感」の渦に巻き込まれて、命取りになることもあるからです。

     「共感」と「受容」は似ているようですが、区別しておく方がよさそうに思います。

     「○○さんは、バラが好きなんですね。そうですかぁ!」(受容)
     「そうですよねぇ。バラって素敵ですよね。うん、うん!」(共感)
     
     というふうに表すと、少し分かり易そうですが・・・。ただし、全く「共感」のない「受容」などあり得ませんから、実際にはそう単純に区別できるわけではありません。

     「受容」は能動的ですが、「共感」はかなり受動的です。なので過度の「共感」はカウンセラーの「立場」を見失わせてしまいます。

     このカウンセラーの「立場」、スタンスというのは、命綱のようにとても重要なものです。しかし厄介なのは、無意識のうちに、それを揺さぶろうとする人がいるということです。



    【2010/07/16 21:30】 | 心理
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     ネイティヴ・アメリカンのヒーリングの方法を、結構有名な年配のカウンセラーの方が、取り入れているのを耳にしたことがあります。太鼓を鳴らしながらクライエントの周囲を廻るのが主な方法で、カウンセリング的な会話は交わしません。
     
     心理カウンセリングの現場で、言葉がどれ程必要なのか。そんなことを近頃よく思います。

     「傾聴」とか「共感」とか「受容」とかよく言われますが、それらは本質的にはセラピスト側の心のかまえの問題です。実際には「言葉」を聴いたり「共感」する以上に、「言葉」とは裏腹な心の声が聞こえてきたり、「言葉」を聞かずとも相手の表情や口調から気持ちが伝わってくる事の方が、ずっと多いように思います。なので、敢えて「話」の内容を聞かずに、表情や仕草や雰囲気にだけ注意を向けていることもあります。


     意味が分からない外国語でも、歌として聞くとものすごく感動したりもします。音声そのものの表情が見えるからです。

     こころは、マルチリンガルというより、超言語です。

     昔、人間は「言語」を用いずに心と心で直にコミュニケーションしていた。その能力は「言語」の使用によって失われるに至った。という神話が、あながち嘘でもなさそうに思います。あるいは、神が人々を分断するためにいくつもの「言語」を与えた、という神話も示唆的です。

     「言葉」はコミュニケーションの手段というよりも、心を隠し、人を欺くための手段なのかも知れません。

     音楽、踊り、祭り、絵画、化粧、衣装 etc. 「言葉」以外のコミュニケーション手段を頻用し、人間以外の存在(動植物や鉱物)ともコミュニケーションする人々ほど、本当にこころ豊な文化を持っているように思います。

     ネイティヴ・アメリカンの古い文化では、山や蝶や煙や雲や鷲も、み~んな「ヒト」と同じ仲間としてコミュニケーションし合えるのだそうです。

     こころはマルチビーイング。すべての存在がひとつの同じところに源をもつ仲間。それを感じ合えるのは森羅万象に、ひとつの源に発するスピリッツ(魂)があるからこそでしょう。


    【2010/07/10 00:49】 | 心理
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    あつこ
    そのヒーリング、現地で受けましたよ。
    何ともいえない心地よい感覚でした。
    ポールもヒーラーなのでそのヒーリングができます。日本で取り入れてるなんてすごいね!
    どんな風にやるのか興味ありますね!


    アポロン
    >あつこさん
    やっぱり。。。
    ぼくも一度受けてみたいですi-179

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