心理カウンセリングやヒプノセラピー(催眠療法)もやっている精神科医です。内科経験もあり。メンタルヘルス、人生のこと 、思索、エッセイ、旅、音楽、ギター、ひとり言 etc.  息抜きに読んで頂ければ幸いです。3.11以降は、原発関連の情報中心です。
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     先進国に住む人々は、一人あたり、毎日ゾウ一頭分のエネルギーを消費しているのだそうだ。
     ゾウ一頭の排泄物の量はものすごい。それが、日本中にまき散らされたら、ぼくらは足の踏み場も無くなっていまうだろう。

     では、現代世界でぼくらが排泄する「ゾウ一頭分のウンチ」はどうなるんだろう。
     
     都会の夏の夜なら、クーラーの室外機を通して熱帯夜を作る。車に乗れば大気中の排気ガスになる。原発を動かせば「死の灰」がどんどん溜まっていく。

     無限に、無尽蔵にエネルギーを使えるという発想は、実はとても異常なことである。無限に、無尽蔵に経済成長しなければならないという発想と同じ。長い人類の歴史の中ではつい最近、近代科学技術が文明の中心になってからのことだ。そしてそんなオプティミズムは、資本主義でも共産主義でも変わらない。

     友人曰く「『エネルギー』を『時間』という概念に置き換えてみると分かり易い」と・・・。

     例えば、ぼくがあと何年生きるか・・・。

     死は必ずやってくる。その間にどれだけエネルギーを使えるかと考えれば、明確な限界がある。そして限られた時間、限られた肉体、限られたこの世の人生の中で、本当に大切なのは、行きている時間の「長さ」ではないことに、ぼくたちは気づいている。

     時計では測り得ない内的時間、「カイロス」こそが本当にリアルな「時間」。それは瞬間であると同時に永遠でもある。ぼくやあなたが生きるているのは、長さも量もない、計測不能なこのカイロス的時間なのである。

     西洋近代科学の実践的起点は占星術師たちの天体観測に始まり、思想的起点は自然哲学者や神学者による人間の「理性」に対する限界設定に始まったのだろうと思う。

     地球は宇宙の中心でなく(地動説)、人を他の生物と分け隔てる「理性」や「知性」には自ずと限界がある(カントの「純粋理性批判」)という、考えてみれば極めてプリミティヴでシンプルな思念に回帰したのが、近代自然科学的思考の原点でもある。
     そんな地動説や近代合理主義を唱えた人々、ニュートンやコペルニクスやデカルトやカントが、当時、敬虔な宗教的探求者でもあったことは、とても興味深い。

     地球は宇宙の中心でなく、人間の理性にも限界があると、そんな通俗的な観念が、何故にその後の人類の意識を制覇し得たのか。何故に近代自然科学的思考が、それ以前の神学的、宗教的理念以上の権威を持つに至ったのだろうか。明確な答えは見当たらない

     いずれにしても「人間存在」や「人智」に限界を与え、一種の目的論的思考(例えば、「神の御心」)を離れた不可知論(無神論ではない)が、他でもない近代自然科学の発展と成長をもたらした。

     そして無限の可能性と潜在能力を信じる、一種の「幼児的万能感」と「神なきオプティミズム」を生み出したことも事実なのだ。 

     
     

        これは、とても不思議な歴史的パラドックスとも思える。

     私たちの「現代科学」はいま、その子どもっぽい「万能感」と「楽観主義」からの脱却と成長を迫られているようにも思えるのだが・・・。



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    【2013/07/08 09:05】 | 思索
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     連れ合いが、児童相談所から帰っきた。
     「ピンク色のコンタクトレンズをつけたい」という5歳の男の子と遊んできたって…。


     ぼくの敬愛するアーティストから、郵便受けに届いたフライヤーを読んだ。

     「あなたは私から生まれはしたが、私のものではない。あなたは私を通ってこの世にやってきた。そして大切な使命を果たすために私の元から遠くに旅立ってゆく」

     劇中の、そんな即興の台詞がしたためられていました。



     すべてが無意識の世界で展開していく・・・。



     中島淳一という人に出会って、ぼくは本気でわが家で彼のアートを演じて欲しかった。
     第一回。珠玉の名作、『ナザレのイエス』をたった4人の観客の前で演じて下さったのは、ぼくにとっての「奇跡」でした。

     画家、詩人、劇作家、演出家、役者・・・。

     すべてが、その世界の概念を超越してしまっている…。と、素人のぼくはそう言うしかないのだけれど…。


     そんな「予定調和」を破壊するクリスチャンに出会っのも初めてでした。


     大人たちよ!子どもたちを侮ってはならない。


    Your children are not your children.
    They are the sons and daughters of Life's longing for itself.
    They come through you but not from you,
    And though they are with you yet they belong not to you.

             “  THE PROPHET(予言者) ” 
                    (カリール・ジブラン)



    中島淳一「李藝」






    【2013/01/31 20:52】 | 思索
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     李藝(イ・イエ)という実在の人物の物語を、日本人、金住則行(かなずみ のりゆき)氏が小説化し、日韓共同製作のドキュメンタリー映画制作も進められています。

     昨日は、中島淳一氏の一人演劇、『李藝』を観せて頂きました。我が家にお呼びするのは3回目です。少人数で「劇的空間」を共有する感覚。「演じる者」と「観る者」の境界が失われ、何ものかが自身の内側に入ってくる、中島淳一の世界に触れた者にしか分からない、魂の記憶を遡っていくような不思議な体験です。

     公演の後、みんなで鴨鍋をつつきながら、いろんなお話もうかがいました。6月にご自身のアトリエでの初演には李藝の子孫の方々と、ドキュメンタリー映画に出演する俳優ユン・テヨン氏が、わざわざ韓国から観に来られ、日本語のわからないユン・テヨン氏が、涙を流していたそうです。

     「大きな力」によって翻弄されながらも、人が「個」として生き抜いて行く力強さ。それを支えるものこそが一番大事なのだと・・・。
     それは愛だと。李藝や無数の人々が現代の私たちに訴えているように思います。

     今だからこそ、本当に重いメッセージだと思います。
     
     私は自身の大切な人を愛しているだろうか。遠くに居ても、自分を支えてくれている無数の人々を愛しているだろうか。未だ見ぬ未来の命たちを愛しているだろうか。それ無しには命を育めない、美しく豊かな島や半島や大陸を・・・、真心こめて愛しているだろうか。
     この地、九州に住んでいれば、中国、朝鮮との交流無しに、今日の日本の歴史や文化があり得なかったことは、あまりにも分かりやすい。


     「領土問題」などは、本当は存在しない。
     「国家」も「国境」も、人の意識の中にしか存在しない。
     
     そんなことを、ことさらに言いたがる人々に聞いてみたい。
     
     人類史終焉の引き金になり得る現実の危機、現在進行形の3.11以降の地球規模の大きな危機をさしおいて、一体何を争っている暇があるのか、と。



     私は「愛」などと軽々しくは言えなくなった。
     同じ日本の中で、親子や夫婦や家族までもが引き裂かれている。

     本当に「愛」を語るなら・・・。
     まずこの国に中で、まともな事をすべきだろう。


     棄民する「国家」など、何の未練も無い。さっさと滅びて欲しい。
     その後には、本物の「個」が、新しい時代を作っていいくだろう。

     むしろそこにしか、未来はないのだと思う。


    中島淳一  
    http://www.j-nakashima.jp

    朝鮮通信使 李藝
    http://www.facebook.com/daisukirigei/timeline

    李藝について | 最初の朝鮮通信使 李藝
    http://rigei.pro/about/

    【2012/12/23 22:45】 | 思索
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    「3.11で、人生が変わりました」
    その言葉を、たくさんの人たちから聞いてきました。

    あるひとりは、静かに語りました。

      「我々が官邸前に集まっているのは、絶望に近い悲しみがあるからだ」。


    怒り、不安、危機感だけではないものが、
    一人一人の心の中で育ちつつあるようにも思えます。


      「絶望に近い悲しみ」


    その感覚は、心の底に深く突き刺さります。
    政治家の嘘、天災、原発事故、病気、死・・・。
    それらよりも、もっと恐ろしいものがあることを、
    私・たちは魂の深みで感じつつあるのあも知れません。




    今日の朝、古くからの知人が癌で亡くなりました。
    悲しくはあるけれど、絶望はしていません。
    彼の「死」は静かに私の前に横たわり、
    彼の魂は静かに私の前で微笑んでいますから・・・。




    「3.11で、人生が変わった」とすると、それは、
    人の死以上に「絶望に近い悲しみ」を
    感じ取ってしまったからかも知れません。


    人間存在そのものに対する「絶望」かも知れません。
    人間がどこまで非人間的であり得るかを、
    うすうす感じとってしまったのかも知れません。


    十字架に架けられたイエスを、
    罪人として侮蔑しなかった民衆が、
    当時どれ程いたことでしょう!?


    私たちが、「私」から離れ、群衆として、民衆として、
    組織の一員として生きてきた事が、
    どれ程罪深い結果を招いているのか・・・。




    何万、何十万と官邸前の人々の数が増えようが、
    それはもはや、数の問題ではなくなってきているように思います。


    一人一人が「絶望に近い悲しみ」に打ちひしがれ、
    「生きたまま死に続ける」ような苦しみから、
    解放される事を望み始めたのだと思います。


    「政治の問題」としかみれない「政治家」は無用です。
    「経済の問題」としかみれない「財界人」も無力です。




    全人類を巻き込み兼ねない大惨事ですが、
    これは究極のところ、「私」の問題、
    「ひとり」の問題に行き着かざるを得ないのだと思います。


    「希望」を捨てることなどありません。
    けれど、深く深く絶望する事なしに、
    この危機を乗り越えることはあり得ないように思います。

    どれだけ多くの「私」が「絶望」することができるか。
    そこに、唯一人類の未来がかかっているようにさえ思えます。



    いや、既にたくさんの人たちが、そんな「絶望」のただ中にいます。
    一生抱え続けるだろう不安を抱えながら、声には出さずとも・・・。


    おぞましい子どもたちの健康被害が闇から闇に葬られ続け、
    密かに、声にならざる不安が広がり・・・、

    静かに、静かに、「絶望」の川を渡り始めた日本人。


           その数が、日に日に増えてきているように思います。

    【2012/08/08 22:09】 | 思索
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    敢えて言うなら、この人の中には「人間」という枠が無い。
    繊細で叙情さえ湛えた抽象画なんかよりも、ずっと大胆でどこか無機質。
    なのに、何故か「人間」を超えた、宇宙的な歓喜を感じさせる。

    無限に連続する水玉は…。

    現象界を飛び出して、宇宙に遍満する、銀河や惑星や素粒子やあるいはダークマターのように、限りなく無限定で「枠」がない。
    もしや神の世界はこのようなものなのか。

    本人は「幻覚」だという。



    人間存在の根源的なエネルギーで世界を満たそうとした岡本太郎とは対照的かも知れない。

    「人間存在」なんかには、微塵の関心もなさそうな彼女の「世界」が、拘縮した私の肉体と精神を木っ端みじんに打ち砕く様の、なんと心地よい事か。

    けれど、表現者の歓喜と痛苦は、ほとんどこの世のものではないに違いない。


    草間 彌生(くさま やよい、1929年3月22日~)という、類い稀なる狂気の天才!



    【2011/08/20 19:59】 | 思索
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    あべひろえ
    草間彌生さんのショックでファンタスティックな
    世界ー好きです。


    -
    あべひろえ様>

    昨日はテレビで特集してました。
    80歳を過ぎても、ものすごいエネルギーですね。
    「絵を書き続けなければ死んでしまう」
    本当にそうなのでしょうね。

    ある批評家は「彼女は空間の概念を解体した」みたいなことを言ってました。なるほど・・・。

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