心理カウンセリングやヒプノセラピー(催眠療法)もやっている精神科医です。内科経験もあり。メンタルヘルス、人生のこと 、思索、エッセイ、旅、音楽、ギター、ひとり言 etc.  息抜きに読んで頂ければ幸いです。3.11以降は、原発関連の情報中心です。
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    「反戦」思想、「反戦」映画、「反戦」芸術 etc.
    それは、自国民、自民族、自己だけでなく、他国民、他民族、他者にとっても等しく共有され得るものであることが必要最低限の条件です。

    学生時代に観たアメリカ映画「プラトーン」でさえ、アメリカ内部の社会問題をテーマにしただけで、アメリカ人がベトナム民衆(女性や子どもも)に対して行った殺戮・残虐行為には、殆ど触れていなかった。故に、「ああ、『ベトナム後遺症』に悩む「アメリカ市民」のマスターベーションか、下らないなあ」と、そう思ったものでした。

    今日、『永遠の0』を観て、僕自身は笑いをこらえるのに必死でした。連れ合いは、泣いていましたが、しかし、二人共通の感想は、「一体どこが『反戦映画』なん??正反対やろ、戦争賛美映画やん」でした。

    実際、賛同、協力しているのは、防衛庁、自衛隊、政府機関、右翼系NPO団体にとどまらず、殆どの新聞社と大手企業でしたから、まず「反戦映画なわけがないでしょ!」という位の、最低限の常識は多くの人に持って欲しいと強く願った次第です。

    そして原作者、百田尚樹は「南京大虐殺」はなかった、「従軍慰安婦」はどこの国でもあったと公言して、世界中から呆れられている人物です。
    <日本軍創設を主張し、「安倍政権では、もっとも大きな政策課題として憲法改正に取り組み、軍隊創設への道筋をつくっていかねばなりません」>と述べている人物です。

    どれほど作品の中に、「妻子への愛」を描いても、中国、朝鮮、台湾、フィリピン、タイ、東南アジアで日本兵が行った残虐行為の現実は一切出てきませんから、当事者たちが、この映画を観て感動する訳がありません。しかも最も大衆受けしそうな「妻子への愛」でさえ、日本男児の「仁侠道」にすり替えられていきますから・・・、日本女性に対しても極めて差別的なストーリーになっています。いっそ、『緋牡丹お龍』みたいなヤクザ映画として創った方が、無難だったんじゃないでしょうか。

    まあ、語るに事足りないほど正真正銘の「戦争賛美映画」ですが、何よりも怖いのが、こんな薄っぺらな、B級お茶の間ドラマレベルのものが、興行として成功していることです。

    日本人は、一体何を考えてきたんでしょうかねぇ???
    狭隘で卑屈なメンタリティーは、戦前から殆ど変わっていない・・・。という現実そのものにも気がつかない・・・。
    気づかないのは日本人だけ。既に世界の中では孤立を深めています。
    そんな風に孤立して、かつて侵略戦争に突入していったのと同じ状況がいま、日本で再現されているわけです!

    無気力で希望も生きがいもない若者たちが、百田尚樹式の低レベルで無思想、浅薄で狡猾な洗脳にのせられるのは極めて容易だと思います。

    なにせ現代の日本の若者は、戦時以上の「狂気」に近い状態にいるのですから。特攻隊に志願する方が「生きがい」を感じられる若者は、半世紀以上前の特攻隊員以上に存在していますからね。
    敗戦後、かつて巷に跋扈していた「特攻くずれ」の若者たちを取材していれば、こんな作品など書けるはずもないのでしょうが、このオッサンにはそんな気持ちは微塵もないのでしょうね。

    そんなオッサンが「NHK経営委員」であるという、日本の「危機」をまず察知すべきでしょう!

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    フィクションではなく、現実に起こった歴史というものは、「逆の視点」にたって観ることが必須だと思います。

    パールハーバー(真珠湾)での宣戦布告なき奇襲作戦で、命を落とした米兵。
    特攻機を見て、精神的におかしくなった米兵。

    日本軍に村ごと焼きつくされ、妻や子を殺された他国の人たちの思い。
    無謀な作戦で、夥しい部下を死に追いやって、敗戦後帰還する船の上から、その部下たちに海に投げ落とされた上官たちの妻や子。
    フィリピンのジャングルで、仲間の人肉を奪い合って生き延びた兵士たちのその後の人生。

    燃料不足とエンジンの不調で、特攻できずに生還した、(恐らく半数以上と思われる)初年兵たちが、「再教育」という名の下に拷問を受けて、再び特攻させられ、あるいは絶命させられた現実。
    夫の生命を奪われた家族たちの戦後の惨状。
    15歳の少年が兵士として招集された沖縄戦。「スパイ容疑」で、祖父母を日本兵に殺された沖縄住民。

    家族もろとも洞窟で「集団自決」させられた人々の村では、その歴史は何十年も語られなかった。すぐ隣りの村では、アメリカ帰りの村民が居たおかげで、「集団自決」は免れた。それは何故か・・・。

    ほんの少しの想像力があれば、「戦争」が、あんなきれい事でないことは、誰にでも容易に想像できる。

    それらのリアルは、ほとんど作品として残されていません。
    「被害者」の歴史は「加害者」によって書かれたりはしません。
    例えば<ナチス政権下で、ユダヤ人をガス室で殺していた夫が、妻と子どもに寄せた愛の物語>なんて作品を観たことがありますか?

    「被害者」面した「加害者」の「美談」、「武勲」、「英雄気取り」ほど醜悪なものはありません。百田尚樹という人物と『永遠の0』という作品を生み出した日本の戦後、及び現在に至る文化・思想そのもを問うべきでしょう。

    それは取りも直さず、私たち自身の「いま」こそが、最大の「テーマ」なのだと思います。世界はしっかり注目しています。「私たち」自身が気づいていないだけです。戦前と同じように・・・。

    「ゼロ戦」の向こう側にいた人々、その妻や子どもたちの命と人生を直視し、描けないなら、やはり未だに日本人は「世界」を観ることのできない、野蛮でわがままな「幼児」とみなされざるを得ません。

    図らずも、数秒のラストシーンの中で、操縦桿を握りしめて敵艦に特攻死する主人公の表情の中に、「作者」の制作意図が隠しようもなく滲み出ています。

    妻と子への愛でも、愚劣な戦争への絶望でも、戦友への義侠心でもありません。

    「今度は、もっときれいに勝ってやる」という強固な敵愾心と復讐心です!
    まぎれもない「戦争賛美」、「戦意高揚」映画である所以です。

    しっかり安倍政権の意を受けて、戦争やる気満々の「NHK経営委員」、百田尚樹は、再び「大本営放送」をやり始めたということです。



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    【2014/03/02 11:03】 | 映画
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    「…多数の日本人が戦闘員としても朝鮮戦争に参加した。米軍と日本政府はこれを否定しつづけたが…」(『朝鮮戦争と日本-日本の朝鮮戦争にたいする人的協力を中心に-』 吉岡吉典 著 1966年発行)

     戦争を放棄したはずの日本戦後史の暗部を多くの日本人は忘れようとしてきたのだが…。




     宮崎駿企画 ・脚本の映画『コクリコ坂から』を観に行った。


     主人公小松崎海(こまつざき うみ)の父は、朝鮮戦争に際し、LST(戦車揚陸艦)の乗り組み員として亡くなったという設定である。

     ドラマの舞台は1963年の日本。翌年には東京オリンピックを控え、朝鮮戦争特需後の高度経済成長まっただ中。この年の6月15日、米ビルボード誌で週間ランキング第1位を獲得した坂本九の「上を向いて歩こう」が、ドラマの中でも流される。
     海外では同年の11月22日、ベトナム戦争からの早期撤退を訴えたケネディ米大統領が暗殺され、戦争は泥沼化していく。
       
     偶然の一致だろうが、ちょうどこの年、日本で最初の原子力発電が行われたのだ。


     いづれにしても、大きな時代の転換期を背景に、甘酸っぱい青春ドラマが展開していく。


     生意気盛りの高校生たちの根城であり、文化の発信地でもある古びた部活校舎「カルチェ・ラタン」を立て替えようとする動きに反発して、やはり父を朝鮮戦争で亡くした風間俊(かざま しゅん)は怒りを込めて叫ぶ。

     「古い物を捨てていくという事は、ぼくたちの記憶も捨てていくという事なんだよ!」(うろ覚えなので正確ではありません)



         その言葉がいまの私・たちの胸に突き刺さる。



     もちろん宮崎駿氏は3.11以前から、この映画製作にとりかかっているのだが…。

     

     良い事も悪い事も、次から次へと忘却して来た私・たち日本人の「文化」、否、「偽文化」の行き着いた果てが、3.11 だったのかと思うと、情けない気持ちになった。
     戦争のこと、原爆のこと、闇に葬り去られた無数の死者たちのこと。わが祖先たちが生きた時空をも、容赦なく切り捨て、故郷や自然を破壊しながら、巨大建築や高速機関や大空港を作り、無駄ともいえる膨大なエネルギーを貪り続けて来た歴史。

     嘘と虚栄と自己欺瞞の上に作られて来たものが、その内実にふさわしい形でいま崩壊し始めたのかもしれない。 

     
     私・たち大人は、原発もろとも消え失せても仕方がないのかも知れない。
     
     「文化」が、世代を通して伝えられていくものであるとするならば、私・たちの過ちをこそ、生まれ来る子どもたちに語らなければならないのだろう。
     私・たちのような生き方は、決してあなたたちを幸福にはしないのだと。


     宮崎駿の作品は、何故かいつも時代の行く先を読んでしまっているようで驚かされる。



     

    【2011/08/02 23:42】 | 映画
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     先日『大鹿村騒動記』を観てきました。ついこの間、7月19日に癌で亡くなられた原田芳雄さん主演の作品です。

     何だか、とてもタイムリーな映画になっていました。リニアモーターカーの建設を巡って対立が生まれようとしている大鹿村には、300年に渡る村歌舞伎の歴史があるのです。村の人々は、戦時中、男たちがいない時も、女たちだけで歌舞伎を続けたといいます。

     歌舞伎を通して人々は結束していくのですが…。
     
     このリニアモーターカーを原発誘致の話に読み替えると、あまりにもリアルなのですが、あにはからんや、実際にリニアと原発は密接に繋がっています。

     映画を作成した人たちにとって、そんなことは「想定外」だったとは思いますが、奇しくも今の時勢にぴったり重なってしまいます。

     いま、私たちが失ったのは、この「村芝居」なのだと思います。原発やリニアなんかよりもっと歴史の古い共有の財産。「ふるさと」と言い換えてもいいのかもしれません。

     みんなが大切に守りたいと思う心の共有財産。

     「子どもたちの命」は勿論そうですが、悲しいかなわが子だけは海外に避難させられる人々もいるから、それさえ「共有」とはならないようです。
     数億円の退職金の出る人々にとっては、日本の国土とか「ふるさと」なんて、ゴミ捨て場程度の価値しかないのかもしれません。

     子どもや若者は死んでも、「国家」や「企業」はちゃんと残りますから。
     
     「仇も恨みも、是まで、是まで」という人間的な世界は、もはや戻って来ないのでしょうか。

     まだ四十九日にもならない故原田芳雄さんに、聞いてみたくなります。



    <東京電力は山梨リニア実験線の変電所等に送電するために、新潟県の柏崎刈羽原子力発電所から山梨県に超高圧100万ボルト送電線の鉄塔工事を進め、すでに新潟、群馬、長野、山梨にわたって数百基に及ぶ膨大な数の送電網が建設されています。これは大地震でストップする前のことですが、原発建設が猛反対に会う中で、リニアが電力需要の一つとして原発増設の理由とされました。>



    【2011/07/25 22:40】 | 映画
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     地球交響曲第七番( GAIA SYMPHONY ? )、観てきました。


     いつものことながら、登場人物と龍村仁監督の出会いそのものが、まるで奇跡のようで、今日も自ら映画制作の裏話をされました。

     第六番から4年・・・、70歳過ぎても老いを感じさせません。監督はしきりに「無意識」あるいは直感という言葉を使われていました。

     何世代にもわたって受け継がれてきた<深層の記憶>。そのようなものが、すべての人の意識の底にあって、つながり、共鳴し合うのだといいます。



     エジプト革命は、「フェイスブック」や「ツイッター」という、最新のコミュニケーションツールの助けも借りて、急速な政権崩壊を現実化しました。誰も予測し難いような変化が容易に起こり得る時代なのだと思います。新燃岳の噴火のように、人々の意識の底に蓄積されたマグマ溜まりのエネルギー量や、流れ出す方向は、爆発の直前までわからないのかも知れません。
     
     エジプトだけでは終わらない激動が、中東全域、イスラエル、中国 etc. あらゆる地域に広がっていくように思えます。極めて緊迫した国際社会の変質、流動化、あるいは崩壊をも覚悟すべきだろうと思います。




     監督が、最後に強調された言葉が印象的でした。地球環境だけでなく、人間社会を含めた、大きな変動を予感しているに違いないと、私は感じました。

     

     「変えられないものを受け入れる心の静けさと、変えられるものを変える勇気と、その両者を見分ける英知を我に与え給え。」(ラインホールド・ニーバーの祈り)




    【2011/02/12 23:25】 | 映画
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     原作のタイトルは、“ The Borrowers ”。直訳すれば「借り主」です。

     太陽の光も、風も、水も、大地のめぐみも、何ひとつとして人間が創ったものはありません。古来人間は、それらによって生かされてきましたし、それらに深く感謝し、自分たちの生存を乞い願って「生きのびて」きたのでした。
     それらはすべて、神様や自然やガイア(地球)からの「借り物」でもあります。

     私たち自身が “ Borrowers ” であり、この地上に「借りぐらし」をしている存在であるともいえます。


     小人たちの「借りぐらし」のために絶対に必要な条件は、「人間に見られてはいけない」ということでした。「見られない」、そして「見ない」ことでそれぞれの領域を守りながら共存してきたのは、人間と小人だけではありません。人間と自然、人間と神様の間の、古くからの掟でもありました。
     
     「見る」(知る)ことは、相手の領域を侵すことであり、よほどの信頼関係がなければ、相手も自らの姿を見せたりはしません。そのタブーを破った者も破られた者も、大きな犠牲を払います。これをモチーフにした神話や民話は無数にあります。黄泉国のイザナミを見てしまったイザナギ、『鶴の恩返し』、神である夫エロスの姿を見てしまったプシューケー etc.


     近代文明や科学技術は、ひたすら「見る」(知る)ことに専念し、そのタブーを破ってきたとも言えます。自然の領域を次から次へと侵してきました。
     地球環境=自然から「借りる」どころか盗みとり、貪り尽くして生きのびてきたのが私たち近代人です。実はその傲慢なやり方が、「小人」(=妖精=自然)の絶滅をも招きつつあるのだと、脚本担当の宮崎駿氏は、言いたかったのかも知れません。

     「見る」(知る)ことの対極にあるのは「思う」ことや「信じる」ことや「祈る」ことなのだと思います。目に見えない世界にこそ、私たちが生きるための大きなエネルギーが秘められているという、深い感覚を取り戻さなければ・・・。



     ここ最近の信じられない事件。とりわけ、安直に家族や他人を殺してしまう事件を見るにつけ思います。加害者たちは、人と自分自身を「見過ぎて」しまったのではないか。自身も含めて、命というものが、人の視界にはおさまりきらない無限の可能性と、変幻自在の変容力をもっていると、そう思える感受性を失ってしまったのではないか。

     命の営みや目に見えない世界のことを、想像したり信じたり祈ったりできる感受性は、「小人」が「見えなく」ても、その存在を信じられる感受性とも繋がっているはずなのですが・・・。



    【2010/08/10 19:56】 | 映画
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