人や自分の心のありようを「わかって」しまう、あるいは「わかった」つもりになってしまうことは、必ずしもいい事ではないのだと思います。
禅問答は、そのような「分別知」の限界、「わかる」ということの限界を体験させていくものです。例えば両手を打って、「この音はどちらの手から出たのか」と問われると、答えに窮します。ひとつの音を右手にも左手にも「分けられない」、即ち「分からない」と言うしかなさそうですが。
いずれにしても・・・音は聴こえます。
あるがままに聴くこと。
あるがままに観ること。
あるがままに感じること。
あるがままに体験すること。
「分けて」考えたり、分析したり、分類したり、レッテルをはったり、言葉や概念の枠の中に納めるのではなく、“ いま ” 、“ ここ ” での生の体験そのものをあるがままに受け入れることの方が、より本質的なのだということです。
人と人との関係も、両手を叩いた時の音のようなものかも知れません。「あなたが私に腹が立つ」とすれば、それは「あなた」だけの問題でも「私」だけの問題でもあり得ないのだということです。
そしてより本質的に人や世界や自分自身と関わろうと思うのならば、できるだけ自分の思考や感情にとらわれずに、自然体でいることです。
究極のところ、自分のありようが問われてしまう訳ですが、それは当然かも知れません。自分のありようを棚に上げて、人のありようを「わかろう」としたり、「分別」の「枠(わく)」の中に封じ込めてしまうというのは、とても傲慢なことでしょうから。
そんな「わけ」の「わからない」人とは「わかれた」方がいいこともあるのでしょう。
禅問答は、そのような「分別知」の限界、「わかる」ということの限界を体験させていくものです。例えば両手を打って、「この音はどちらの手から出たのか」と問われると、答えに窮します。ひとつの音を右手にも左手にも「分けられない」、即ち「分からない」と言うしかなさそうですが。
いずれにしても・・・音は聴こえます。
あるがままに聴くこと。
あるがままに観ること。
あるがままに感じること。
あるがままに体験すること。
「分けて」考えたり、分析したり、分類したり、レッテルをはったり、言葉や概念の枠の中に納めるのではなく、“ いま ” 、“ ここ ” での生の体験そのものをあるがままに受け入れることの方が、より本質的なのだということです。
人と人との関係も、両手を叩いた時の音のようなものかも知れません。「あなたが私に腹が立つ」とすれば、それは「あなた」だけの問題でも「私」だけの問題でもあり得ないのだということです。
そしてより本質的に人や世界や自分自身と関わろうと思うのならば、できるだけ自分の思考や感情にとらわれずに、自然体でいることです。
究極のところ、自分のありようが問われてしまう訳ですが、それは当然かも知れません。自分のありようを棚に上げて、人のありようを「わかろう」としたり、「分別」の「枠(わく)」の中に封じ込めてしまうというのは、とても傲慢なことでしょうから。
そんな「わけ」の「わからない」人とは「わかれた」方がいいこともあるのでしょう。
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一輪 魂の世界にいるようなブログに出会ったような…。
そんな気持ちです。本当です。言葉が無かったら?
と思ってしまう事が度々。余りにも嘘やごまかしや
裏腹に使われているようで…。哀しいほどに。
ありのまま。素直なまま。愛のままで生きていたい。誰が解ろうと解るまいとも…。
周りを見ても、何か大きな事を忘れているのでは?と、感じ続けてきた日々です。
このブログに感謝です。
アポロン 一輪さん
ありがとうございます。
ほんとうに「愛のままで生きていたい」ですね。
また、お立ち寄り下さい!
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