心理カウンセリングやヒプノセラピー(催眠療法)もやっている精神科医です。内科経験もあり。メンタルヘルス、人生のこと 、思索、エッセイ、旅、音楽、ギター、ひとり言 etc.  息抜きに読んで頂ければ幸いです。3.11以降は、原発関連の情報中心です。
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     原作のタイトルは、“ The Borrowers ”。直訳すれば「借り主」です。

     太陽の光も、風も、水も、大地のめぐみも、何ひとつとして人間が創ったものはありません。古来人間は、それらによって生かされてきましたし、それらに深く感謝し、自分たちの生存を乞い願って「生きのびて」きたのでした。
     それらはすべて、神様や自然やガイア(地球)からの「借り物」でもあります。

     私たち自身が “ Borrowers ” であり、この地上に「借りぐらし」をしている存在であるともいえます。


     小人たちの「借りぐらし」のために絶対に必要な条件は、「人間に見られてはいけない」ということでした。「見られない」、そして「見ない」ことでそれぞれの領域を守りながら共存してきたのは、人間と小人だけではありません。人間と自然、人間と神様の間の、古くからの掟でもありました。
     
     「見る」(知る)ことは、相手の領域を侵すことであり、よほどの信頼関係がなければ、相手も自らの姿を見せたりはしません。そのタブーを破った者も破られた者も、大きな犠牲を払います。これをモチーフにした神話や民話は無数にあります。黄泉国のイザナミを見てしまったイザナギ、『鶴の恩返し』、神である夫エロスの姿を見てしまったプシューケー etc.


     近代文明や科学技術は、ひたすら「見る」(知る)ことに専念し、そのタブーを破ってきたとも言えます。自然の領域を次から次へと侵してきました。
     地球環境=自然から「借りる」どころか盗みとり、貪り尽くして生きのびてきたのが私たち近代人です。実はその傲慢なやり方が、「小人」(=妖精=自然)の絶滅をも招きつつあるのだと、脚本担当の宮崎駿氏は、言いたかったのかも知れません。

     「見る」(知る)ことの対極にあるのは「思う」ことや「信じる」ことや「祈る」ことなのだと思います。目に見えない世界にこそ、私たちが生きるための大きなエネルギーが秘められているという、深い感覚を取り戻さなければ・・・。



     ここ最近の信じられない事件。とりわけ、安直に家族や他人を殺してしまう事件を見るにつけ思います。加害者たちは、人と自分自身を「見過ぎて」しまったのではないか。自身も含めて、命というものが、人の視界にはおさまりきらない無限の可能性と、変幻自在の変容力をもっていると、そう思える感受性を失ってしまったのではないか。

     命の営みや目に見えない世界のことを、想像したり信じたり祈ったりできる感受性は、「小人」が「見えなく」ても、その存在を信じられる感受性とも繋がっているはずなのですが・・・。


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    【2010/08/10 19:56】 | 映画
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