男性の摂食障害は、想像される以上に多そうです。ただ、病院にかかったり周囲の目にとまることが少ないので、問題化されにくいのでしょう。
古典的な「拒食症」の理解では、「母のような成熟した女や『母親』にはなりたくないために痩せようとする」という解釈がありました。しかし、これでは男性の拒食症の説明にならないだけでなく、現に拒食症の母親もいるという現実と矛盾してしまいます。
岡本太郎の母、岡本かの子が『鮨』という小説を書いているのですが、そこに描写されているのは拒食症っぽい少年です。
これを読んだとき、「少年」と「母」は太郎とかの子のことではないかと思いました。
およそ母親としての役割を果たすことができず、幼い子供を柱にくくりつけても創作に専念した「神のような純粋さ」を持つ母。夫の了解のもと大学生の恋人を自宅に同居させる母。
太郎の内には母に対する、両極端の印象と感情が同時にあり、そんな<母ー私ー世間>との間に生じた深い亀裂が、後の人生に大きな影響を及ぼしたようです。
母、かの子の愛を受け、太郎自身もかの子を愛していたのは間違いないのでしょうが、ただその「愛」は母子間の「愛」ではなさそうです。太郎が受け取っていたものが「母性愛」ではなく、太郎が母親に向けた「愛」も、子としての愛ではなかったことが次の文章からも伺われます。
そんな生育歴をもった太郎に一時的な拒食期があったとしても決しておかしくはないと思いました。いや寧ろ、彼はなぜ「拒食症」にならなかったのかと、問いたくなります。
古典的な「拒食症」の理解では、「母のような成熟した女や『母親』にはなりたくないために痩せようとする」という解釈がありました。しかし、これでは男性の拒食症の説明にならないだけでなく、現に拒食症の母親もいるという現実と矛盾してしまいます。
岡本太郎の母、岡本かの子が『鮨』という小説を書いているのですが、そこに描写されているのは拒食症っぽい少年です。
子供の呼んだのは、現在の生みの母のことではなかった。子供は現在の生みの母は家族ぢゅうで一番好きである。けれども子供にはまだ他に自分に「お母さん」と呼ばれる女性があって、どこかに居さうな気がした。
これを読んだとき、「少年」と「母」は太郎とかの子のことではないかと思いました。
およそ母親としての役割を果たすことができず、幼い子供を柱にくくりつけても創作に専念した「神のような純粋さ」を持つ母。夫の了解のもと大学生の恋人を自宅に同居させる母。
…令息岡本太郎さんが『子供の私はおよそ母の愛というものを、感ぜずじまいに終わりました。むしろ私は母をにくみました』そういう述懐を聞くにおよび、…
(『「あの人この人」私の交友録』 安田光昭著)
(『「あの人この人」私の交友録』 安田光昭著)
また彼女ほど、生涯を通してきびしく潔癖性を貫いた人は稀だろうと思う。
神のような純粋さを子供の私は信じていた。
しかし、やがてもの心ついて、周囲のことがわかるようになって来た小学校一、二年頃から、近所の人や、世間の考えている岡本かの子観がおよそそれと正反対なのに驚いた。
私は耳に入ってくる噂を恐怖的に聞いた。まるで母が嘘と作為にみちた、きざでいやらしい、むしろ不潔な人間のようだ。
私にとってはひどい精神的打撃だった。あんなに純粋で潔癖な人間を、どうして汚くゆがめて見るのか。どうしてそんな不公平な、意地悪な、ひどいことがあるのか。その不当感――憤りというよりも絶望感が幼心に灼きついた。
私が、社会、人間に対する嫌悪感と恐怖感をおぼえた、それが最初のきっかけではなかったか。その一種の不信と復讐心のようなものは、今日でも私の孤独感の根底にある。
(『人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。』 岡本太郎著)
私は耳に入ってくる噂を恐怖的に聞いた。まるで母が嘘と作為にみちた、きざでいやらしい、むしろ不潔な人間のようだ。
私にとってはひどい精神的打撃だった。あんなに純粋で潔癖な人間を、どうして汚くゆがめて見るのか。どうしてそんな不公平な、意地悪な、ひどいことがあるのか。その不当感――憤りというよりも絶望感が幼心に灼きついた。
私が、社会、人間に対する嫌悪感と恐怖感をおぼえた、それが最初のきっかけではなかったか。その一種の不信と復讐心のようなものは、今日でも私の孤独感の根底にある。
(『人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。』 岡本太郎著)
太郎の内には母に対する、両極端の印象と感情が同時にあり、そんな<母ー私ー世間>との間に生じた深い亀裂が、後の人生に大きな影響を及ぼしたようです。
母、かの子の愛を受け、太郎自身もかの子を愛していたのは間違いないのでしょうが、ただその「愛」は母子間の「愛」ではなさそうです。太郎が受け取っていたものが「母性愛」ではなく、太郎が母親に向けた「愛」も、子としての愛ではなかったことが次の文章からも伺われます。
そして一日じゅう泣いている。阿修羅のような、というのはあのことだろう。手のほどこしようがない。
私はそれを眺めながら呆然とする。母が外で意地悪いめにあわされてきたときなのだ。女でも男でも、母みたいに素っ裸な、子供のような神経をもった者に対して、文字どおり赤児の手をねじるたやすさで、冷たいイジメ方をしたらしい。それをまともに受けて、血だらけになって帰ってくる、という感じだった。
はたで見ていて、自分が血を流し、傷ついているような苦しみを感じたものだ。子供の前で、そんな姿を見せるなんて、今考えてみればまことに変った母親だと思うのだが。
(『人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。』)
私はそれを眺めながら呆然とする。母が外で意地悪いめにあわされてきたときなのだ。女でも男でも、母みたいに素っ裸な、子供のような神経をもった者に対して、文字どおり赤児の手をねじるたやすさで、冷たいイジメ方をしたらしい。それをまともに受けて、血だらけになって帰ってくる、という感じだった。
はたで見ていて、自分が血を流し、傷ついているような苦しみを感じたものだ。子供の前で、そんな姿を見せるなんて、今考えてみればまことに変った母親だと思うのだが。
(『人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。』)
そんな生育歴をもった太郎に一時的な拒食期があったとしても決しておかしくはないと思いました。いや寧ろ、彼はなぜ「拒食症」にならなかったのかと、問いたくなります。
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