生きるということは、大地の上に生かされるということなのだと思います。
チェルノブイリの人々の一部が、それでも敢えて放射能に汚染された故郷の土地に帰って行ったことを思う時、人がただただ当たり前に生きるという事の、深く神聖な意味に思いを馳せざるを得ません。
日本の高度成長期、たくさんの土地が売られ、開発され、お金で「転が」されたりもしました。故郷や土地を奪われた人たちもいました。
土地や自然を売買するという感覚が、実はとても奇妙で不自然なことであることを、いまこそ学ぶべきかもしれません。
とりわけ、そこに稲を植え、作物を育て、あるいは水をくみ、魚を捕ってきた土地が、いわば人々の命と身体の一部でもあるということを、改めて知らなければならないように思います。
さらに考えれば、そこにはたくさんの目に見えない存在たちが、生きている人々と共に在るということ。すなわち亡くなった祖先たちの血や骨や肉の染み込んだ大地。祖霊や、山や海の神々や、土地の神様がいて、それらと切り離されて生きることが、いかに無謀なことであるか。
地震と津波で、1万人以上の人々が亡くなって、まだ2ヶ月も経たないいま。危険と隣り合わせで、強い不安を抱きながらも、容易にそこを離れられない気持ちは、当事者でない私の想像を絶します。けれどもおそらく、それこそが人間という存在なのだと思います。
ただ仮設住宅を建て、仕事を斡旋し、賠償すれば事足りるという程に、私たちの「生活」は、軽々しいものではありません。
土地を汚され、追い払われることが、わが子や、わが親や、わが家族や血肉を奪われるにも等しいことだという、その原初の感覚を、私たちはいま取り戻さなければ・・・、もう生きていけないところまで来てしまったのではないかと思います。
「便利な生活」や大規模な経済活動よりも大切でかけがえのない、無数の見える存在や見えない存在とのつながり。
そのことに思いを馳せなければ、一日も生きていけないように思えます。
チェルノブイリの人々の一部が、それでも敢えて放射能に汚染された故郷の土地に帰って行ったことを思う時、人がただただ当たり前に生きるという事の、深く神聖な意味に思いを馳せざるを得ません。
日本の高度成長期、たくさんの土地が売られ、開発され、お金で「転が」されたりもしました。故郷や土地を奪われた人たちもいました。
土地や自然を売買するという感覚が、実はとても奇妙で不自然なことであることを、いまこそ学ぶべきかもしれません。
とりわけ、そこに稲を植え、作物を育て、あるいは水をくみ、魚を捕ってきた土地が、いわば人々の命と身体の一部でもあるということを、改めて知らなければならないように思います。
さらに考えれば、そこにはたくさんの目に見えない存在たちが、生きている人々と共に在るということ。すなわち亡くなった祖先たちの血や骨や肉の染み込んだ大地。祖霊や、山や海の神々や、土地の神様がいて、それらと切り離されて生きることが、いかに無謀なことであるか。
地震と津波で、1万人以上の人々が亡くなって、まだ2ヶ月も経たないいま。危険と隣り合わせで、強い不安を抱きながらも、容易にそこを離れられない気持ちは、当事者でない私の想像を絶します。けれどもおそらく、それこそが人間という存在なのだと思います。
ただ仮設住宅を建て、仕事を斡旋し、賠償すれば事足りるという程に、私たちの「生活」は、軽々しいものではありません。
土地を汚され、追い払われることが、わが子や、わが親や、わが家族や血肉を奪われるにも等しいことだという、その原初の感覚を、私たちはいま取り戻さなければ・・・、もう生きていけないところまで来てしまったのではないかと思います。
「便利な生活」や大規模な経済活動よりも大切でかけがえのない、無数の見える存在や見えない存在とのつながり。
そのことに思いを馳せなければ、一日も生きていけないように思えます。
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