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    心理カウンセリングやヒプノセラピー(催眠療法)もやっている精神科医です。内科経験もあり。メンタルヘルス、人生のこと 、思索、エッセイ、旅、音楽、ギター、ひとり言 etc.  息抜きに読んで頂ければ幸いです。3.11以降は、原発関連の情報中心です。
     摂食障害になる人たちの心の底には強い自己否定感があります。「あるがままの自分」ではいけない、認められないと思い、痩せることや、あるいは栄養摂取を制限することに、強迫的な努力を傾けます。そのように「努力している自分」、「意志の強い自分」でなければ許せません。その強力な意志によって社会的には成功を収める人もいます。あるいはそれが挫折したとき、自殺に至る人もいます。

     自己否定感の裏には激しい怒りが潜んでいます。その怒りの対象は必ずしも母親とは限りません。社会や世界を対象とすることもあります。
     認められたいー愛されたい欲求と、認めてくれないー愛されないことへの怒りという二つの感情の間に板挟みになって、激しい不安感に苛まれます。その両価的な感情は、大量に過食した後に、それを吐き出すという行動にも反映されます。


     この「強い自己否定感」というのは、おそらく今の時代の普遍的なテーマのように思います。イジメ、不登校、ひきこもり、リストカット、幼児虐待、DV、依存症 etc. さまざまな心理現象の根底に流れている共通の特性のように思われます。




     姪と甥が小学校低学年の頃です。連れ合いが遊びに行って帰ろうとすると、よく泣き出すことがありました。
     彼らが一番強く要求したのは、「『そうね、そうね』って、言って!」でした。ともかく、何の脈絡もなく「そうね、そうね」と言われるだけで、嬉しかったようです。<無条件の受容>ということなのでしょうが・・・。
     
     そんな風に無条件に認められる機会など、今の子供たちにはありません。
     「特別な努力をしていないありのままの自分」が親や他者から無条件に認められるような体験は少なくなっています。
     
     基本的な安心感、安全感、自己肯定感を子どもの心に与えるのは、親だけでなく、「社会そのものの母性」ともいうべきものだと考えるのですが、それが失われてしまっているように思います。「父性」が優位になっているなどということではなく、寧ろ「父性」も失われているのです。



    【2010/09/22 19:31】 | メンタルヘルス
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     岡本太郎の美術作品や文章が、若い人たちの間で注目されています。

     彼の生き方、人生観、恋愛観、人間観、世界観というものには、これまでの日本人の中には見たこともないような、強い熱情、力強さ、反発力と自由を貫き通す爽快さを感じます。

     文化人類学者マルセル・モースやピカソに出会い、縄文土器に出会い、沖縄に出会い、「人類の進歩と調和」(大阪万博)の薄っぺらさに真っ向から対抗して表現しようとした時空的スケールの巨大さ・・・。
     反近代主義とも言えるでしょうが、アバンギャルドの枠にも収まらず、彼が行き着いたのは、人類の心の内奥に置き去りにされてきた、極めて単純で素朴で自然な、「原始的な」と言ってもいいかもしれない、感受性や生命力のように思えます。

     芸術家は、しばしば自身の「闇」や「孤独」と向き合う中で、より深く普遍的なものを発見します。

    孤独こそ人間が強烈に生きるバネだ
    孤独だからこそ、全人類と結びつき
    宇宙に向かってひらいていくんだ

    個性的なものの方が普遍性がある。
      (『強く生きる言葉』 岡本太郎著)

     太郎は世界を拒絶せず、寧ろ挑みかかっていった。より困難で苦しい道を、命がけで選択し続けた。けれど、それをしなければ、「岡本太郎」は存在しなかっただろうし、「拒食症」どころか、命そのものをながらえていなかったかも知れないと思う。
     
     若者たちは嗅ぎつけるのだと思う。この天才が、実は自分たちと同じ「闇」や「孤独」を抱えていたに違いないことを。その極めて個的な地点から出発して、闘い続け、到達した地点に彼のすべての表現があり、それこそがほかの誰にもない、力強い普遍性をもっていることに。



     
    けれども子供にはまだ他に自分に『お母さん』と呼ばれる女性があって、どこかに居さうな気がした。     
      (『鮨』 岡本かの子著)

    ぼくが秘書の平野君(岡本敏子)にもっているのは
    絶対的な信頼だな。
    相手がすべてを捨てて、
    こっちに全身でぶつかってくると、
    それにやはり全身でこたえる。
      (『愛する言葉』 岡本太郎著)


     岡本敏子こそ、『母の愛というものを、感ぜずじまい』だった太郎の、もう一人の『お母さん』だったのでしょう。そして太郎の内側にある「光」の解放を、彼女が支え続けたのだと思います。

     母性愛と摂食障害の関係を思うとき、敏子の「母性」なしに太郎の芸術活動の持続は極めて困難であったに違いないと思います。
     女優宮沢りえさんが、岡本太郎と岡本敏子の大ファンで、彼らの文章の朗読などにも取り組んでおられるというのも、なるほどなぁ~、と思えます。

     「母性」は母親の個人心理のみには還元され得ない地点に在り、恋人の中にも、男の中にも、父親の中にも、「尊敬する人」の中にも・・・、場合によっては自然そのものの中にも存在しているに違いないと思うのです。



    【2010/09/15 23:15】 | メンタルヘルス
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     男性の摂食障害は、想像される以上に多そうです。ただ、病院にかかったり周囲の目にとまることが少ないので、問題化されにくいのでしょう。

     古典的な「拒食症」の理解では、「母のような成熟した女や『母親』にはなりたくないために痩せようとする」という解釈がありました。しかし、これでは男性の拒食症の説明にならないだけでなく、現に拒食症の母親もいるという現実と矛盾してしまいます。
     


     岡本太郎の母、岡本かの子が『鮨』という小説を書いているのですが、そこに描写されているのは拒食症っぽい少年です。

     子供の呼んだのは、現在の生みの母のことではなかった。子供は現在の生みの母は家族ぢゅうで一番好きである。けれども子供にはまだ他に自分に「お母さん」と呼ばれる女性があって、どこかに居さうな気がした。

     これを読んだとき、「少年」と「母」は太郎とかの子のことではないかと思いました。
     


     およそ母親としての役割を果たすことができず、幼い子供を柱にくくりつけても創作に専念した「神のような純粋さ」を持つ母。夫の了解のもと大学生の恋人を自宅に同居させる母。


    …令息岡本太郎さんが『子供の私はおよそ母の愛というものを、感ぜずじまいに終わりました。むしろ私は母をにくみました』そういう述懐を聞くにおよび、…
        (『「あの人この人」私の交友録』 安田光昭著)



     また彼女ほど、生涯を通してきびしく潔癖性を貫いた人は稀だろうと思う。
     神のような純粋さを子供の私は信じていた。
     しかし、やがてもの心ついて、周囲のことがわかるようになって来た小学校一、二年頃から、近所の人や、世間の考えている岡本かの子観がおよそそれと正反対なのに驚いた。
     私は耳に入ってくる噂を恐怖的に聞いた。まるで母が嘘と作為にみちた、きざでいやらしい、むしろ不潔な人間のようだ。
     私にとってはひどい精神的打撃だった。あんなに純粋で潔癖な人間を、どうして汚くゆがめて見るのか。どうしてそんな不公平な、意地悪な、ひどいことがあるのか。その不当感――憤りというよりも絶望感が幼心に灼きついた。
     私が、社会、人間に対する嫌悪感と恐怖感をおぼえた、それが最初のきっかけではなかったか。その一種の不信と復讐心のようなものは、今日でも私の孤独感の根底にある。
        (『人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。』          岡本太郎著)


     太郎の内には母に対する、両極端の印象と感情が同時にあり、そんな<母ー私ー世間>との間に生じた深い亀裂が、後の人生に大きな影響を及ぼしたようです。
     母、かの子の愛を受け、太郎自身もかの子を愛していたのは間違いないのでしょうが、ただその「愛」は母子間の「愛」ではなさそうです。太郎が受け取っていたものが「母性愛」ではなく、太郎が母親に向けた「愛」も、子としての愛ではなかったことが次の文章からも伺われます。



     そして一日じゅう泣いている。阿修羅のような、というのはあのことだろう。手のほどこしようがない。
     私はそれを眺めながら呆然とする。母が外で意地悪いめにあわされてきたときなのだ。女でも男でも、母みたいに素っ裸な、子供のような神経をもった者に対して、文字どおり赤児の手をねじるたやすさで、冷たいイジメ方をしたらしい。それをまともに受けて、血だらけになって帰ってくる、という感じだった。
     はたで見ていて、自分が血を流し、傷ついているような苦しみを感じたものだ。子供の前で、そんな姿を見せるなんて、今考えてみればまことに変った母親だと思うのだが。
       (『人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。』)

     



     そんな生育歴をもった太郎に一時的な拒食期があったとしても決しておかしくはないと思いました。いや寧ろ、彼はなぜ「拒食症」にならなかったのかと、問いたくなります。




    【2010/09/14 21:49】 | メンタルヘルス
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     共同体の崩壊と核家族化に伴って、「母性」や「父性」、あるいは「男性性」や「女性性」というものを、家族の外から得ることが難しくなりました。

     それらの、より(生物学的)自然に根ざした心理属性は、元来「個人」を超えた共同体社会の中でこそ、生き生きと発現するもののはずです。子どもは両親だけでなく、叔父や叔母や、隣の家族の親や村の人々からも「母性」的、あるいは「父性」的な関わりを与えられ、年配の青年たちを通して「男性性」や「女性性」を模倣して育っていました。村の男たちや女たちが共同で村の子どもたちを育てていたと言い換えてもいいでしょう。

     「拒食症」が第二次大戦後、特に1960年代から急激に増えてきたのは、地域社会の崩壊と歴史的に符合するように思えます。 

     そのような機能が無くなれば、家族の中で全てをまかなわざるを得ません。子どもにとっては自分の両親には無い、ほかの「母性」や「父性」を体験する事がなくなるわけです。子どもに供給される家族内での「母性」や「父性」、あるいは「親性」は、相対的に貧困で偏ったものにならざるを得ません。

     子どもを虐待する親たちも、恐らく彼ら自身が子どもの頃に、極めて希薄な「母性」や「父性」や「親性」でしか関わってもらえなかったのだろうと推測されます。

     「機能不全家族」という概念がありますが、その中で育てられた子どもが人格形成において、社会にうまく適応できない「機能不全」に陥り、そしてまた何らかの「機能不全家族」を形成してしまう(世代間連鎖)という見方です。
     
     しかし私が強く思うのは、実は因果関係の連鎖から考えるならば、まず始めに地域社会の崩壊があり、核家族の閉鎖的システムが生まれ、「機能不全」を修正し得る社会システムが無い中で、個々人の様々な病理が生み出されてきた。そう考える方が理屈に適っていると思えるのです。 

     狩りをしたり、家を建てたり、獣を追い払う父(男)。自分の子どもに限らず、母乳のでない母親の代わりにも授乳したり、排泄を助け、家族や村人の食事を作ったり、衣類を洗濯する母(女)。
     原始的な自然と人間の関係の中では、殆ど生物学的次元に近い行動様式として、「母性」ー「女性性」や「父性」ー「男性性」の実体は見えていたのでしょうが、人間の生活が自然から遠ざかるに従って、それらは曖昧で抽象的な概念になってしまいました。その歴史的変遷の善悪を議論しても無意味ですが、その「概念」の曖昧さは却って個々人の深層に生き続ける、心理的次元での「母性」ー「女性性」や「父性」ー「男性性」の「元型」(ユング)を見えにくくしているように思えます。

     それだけではありません。「男性性」や「女性性」は、実体のないメディアの世界で最も華々しく表現されるようになりました。つまり生物学的自然から遊離した、商業主義やファッションや奇妙な「文化意識」(より進んでいる、流行している等)によって表層的な「男性性」ー「女性性」だけが強調されるようになってきたことが、事態に拍車をかけているのかも知れません。



    【2010/09/10 13:18】 | メンタルヘルス
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     子どもにとって、最初の食物(母乳)は母親から与えられます。

     その母が例えば弱い人である時。つまり社会性のことではなく、母として子どもを愛する機能、「母性」において弱い時。あるいは「愛する」行為が押し付けがましく、自分本位だったり、過干渉だったり。
     あるいは、母にとって「私」以上に愛情を注がなければならないもの、例えば病気の家族や大事な仕事がある時。あるいは母に必要な愛が父から注がれていない時。

     子どもたちはいろんな心理的反応をおこします。母に対する愛憎の入り混じった両価的(ambivalent)な感情もそのひとつです。
     <必要以上に愛情を求めてはいけない>、<「偽物」の母の愛を受け入れてはならない>、<「本当」の愛が欲しい>、<私にだけ向けられる愛が欲しい>、<私は特別な存在でなければならない> etc.

     「拒食症」の多くの人は、そんな葛藤を内に秘めています。
     
     寂しい思いを募らせてきた子どもは、その空虚を埋めるために、「過食」もします。そして罪悪感と後悔の念に苛まれて、食べたものが消化されて自分の肉体に同化する前に、自ら嘔吐します。やがて「嘔吐」を目的に「過食」するということも起こります。

     彼らは痩せるためにしばしば下剤や利尿剤を頻用します。「食べる」=「同化する」こと、「吐き出す」=「異化する」ことであるならば、「拒食」も「過食」も結局のところ、食べ物や母親や外界を「異化」すること。あるいはそれらに「同化」する自分を拒絶することにほかなりません。

     そのような摂食障害の病理が現代社会(「先進国」)に特有であるのは、興味深い事です。
     食が豊かになり、飢える事がなくなったから・・・、ということもひとつの理由ではあるのでしょうが。圧倒的に女性に多いことの説明としては不十分です。



    【2010/09/09 15:41】 | メンタルヘルス
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    ソニア
    母親の愛 追い求めている人 多いですよね

    もしかしたら すべての人がそうなのも・・・ 
    人それぞれ、状況によって その思いが病になるのですね

    母親に愛してもらえない自分が愛せなないのでしょうか  
    それが女性だと・・生まれながらの母になるという本能があるので混乱するのかな

    愛がなければ この世に産まれないのですけどね 10カ月、お腹に入れとくのは大変なんだけどな~ ミルクもらわなきゃ
    大人になってないのだけど・・・
    愛の形はそれぞれ・・・
    自分の思い描いた理想の母の愛が欲しいのかな~ 



    アポロン
    母と娘のつながりは、父と息子のつながり以上にとても強いと思います。
    同じ子どもでも、男の子はそこには割り込めないようです。

    男性の求める「母性」と、女性が求める「母性」は、多分かなり違っているようにも思うのですが、いまだに、ぼくには謎です。。。



    ソニア
    女性は母親の人生と自分の人生を重ねるのでしょうかね
    愛して欲しい その想いは 永遠なんですよ

    神の愛に気がつくと 人からの愛に踏ん切りがつくのかも・・・



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